昭和四十六年二月二十四日


御神訓 一、
 一、 今より何事にも方位は忌まずわが教えの昔に帰れよ。
御理解第三十七節
「生きている間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞい。」
御神訓 一、
 一、神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ、頼む心に隔てなく祈れ。
御神訓 一、
 一、清き所も汚き所もへだてなく天地の神はお守りあるぞ、わが心に不浄を犯すな。


 信心を頂いていると、信心を稽古させて頂こうと言う者の基本になると云うかね、基本姿勢とでも申しましょうかね。只信心がおかげならおかげと、云う様なことから信心が始められたと致しまして、その事が終始しておったら本当な信心が分からんなりに仕舞ってしまうでしょうから、お道の信心の基本になるもの、それは何処までも人間は万物の霊長であるから、万物の道理に合う信心、何処までも人間がする信心、何処までも人間らしい信心。まあ人間らしくない信心なんて、ええそういうおかしいか知れませんけど、やはり色々あります。どうも合点が行かない。只一心に拝むだけが信心であると云う様なところがあります。只一心、いわゆる願行と言いますが、一心に拝む事だけといった、そして自分の願いを叶えて貰おうとする信心。その為には様々な迷信的なことを平気でやる。
 先日の新聞にいよいよこの試験が始まります。その見出しだけしか見えませんでしたが、大きく写真入りで西日本新聞に、どうぞ神様御地蔵様と云う見出しで書いてありました。どうぞ神様御地蔵様、悲しい時の神頼み、一心に日頃神様と云わない人でも、神様を拝んだり頼んだり、そして写真が出ておりました。もう一生懸命学生が御堂の前でしょう、沢山拝んでおる写真が出ておる。沢山な試験合格といった字を何百字と書いて貼ってある。折り鶴がもう何千何万あるか分からん。沢山試験に合格しましたら千羽の鶴をお供えしますと云った様なことじゃないでしょうかね。それともまた初めからそういう祈願を立ててする人。その写真が出ていました。皆さんもご覧に成ったでしょう。
 だから、それを信心だと思っている。そういう信心を例えば、金光様の信心と一つにされたら叶わんと云うのではなくて、金光様の信心から云わせると、それは信心ではないと云うことになるのです。 云うなら気休めの、自分が不安で不安でたまらない。だから願わずにはおられない、すがらにゃおられない。もう何様でも、彼様でも良い、まあ聞いて下さる神様があれば、まあお地蔵さんが在るとするならば、もうそこに祈願を掛けて拝む。そういう事が信心で、そういう事が始められると云うことになったら、おかしな話ですよね。迷信もよいところですね。けれども、人間はやはり弱いものです。 恐らくあの写真はあの日田の高塚さんのお地蔵さんの写真だったと思うのですけどね。あちらのお地蔵さんの云っておられることが素晴らしいですね。
 お互いの心、人間の弱点をぴしゃっと握って御座る感じですね。人間の一つだけの願いなら何でも叶えてやろうぞと仰った。ですから、病気の者は私も一回あちらへお参りしたことがあります。
 菊栄会の方達と一緒に、それに糖尿病なら糖尿病と人がおかげを頂く為に、糖尿病糖尿病とそれこそ、何千字と分からん沢山の字を書いて、しかも気易い、容易いことではありますよね。それでいいのですから、お金がかからんと云うのですから。
 そしてその糖尿病を何千字書いて奉納したらそれはおかげを頂いた人が奉納したのか、又はおかげを頂きたい人がそういう事するのかそれは分かりませんけど、試験合格、合格、合格と書いてしたら願いが聞き届けて貰えると、金光様の御信心はそういう事では無い。まあそういう例を云うなら、まあその人の信仰だと云った様なもの、昔の・・今でもそうでしょうけれども、花柳会の人達は随分平気でやりましたですね。
 今月の何何のお客様の來ることの為に、まじない的なこと、それがもう信仰になって仕舞った。例えば今でもやってますよね、水商売の人達はそこの玄関口には夕方になると打ち水をされて必ず盛り塩なんかされて、塩をこう三つまみ程置いてある。あれは一つの信仰ですね。願いです。今日もどうぞお客様がお見えになります様にと祈り、願いを込めて致します。
 だからそれを思い込んで致しますと、やはりせんより良か、と云うた風に來るのではないでしょうか。例えばそのお地蔵さんに掛けられている千羽鶴でも、その祈願成就の為に、祈願成就、祈願成就とそれを一生懸命に思うたり書いたりしていることがですね、吾が心に神が御座るから一心を立てればおかげになるのじゃと仰る様な、そういう意味に於いての御利益と云ったものが現れて來ると云う理もそこから生じて來る訳です。
 教祖はそういう信心ではなくて、ここに今より何事にも方位を忌まず、今迄お前達が云って来た迷信を一掃してと云う様な意味じゃなかろうかと思うのです。正しいことを覚えさせて貰い、いわゆる吾が教えの昔に帰れよ、ここのへんのところ、私にも正確なこと分かりません。教祖が昔に帰れとはどういうことかと、いわゆる天地金乃神様の立場からここんところ申しますなら、やはり日柄とか方位とか様々なことでもです、それは人間が途中から作ったもの。
人間が考え出したもの、だからそういう事のなかった以前と云うものは、日柄もなければ方位も無かったと云う訳であります。だからそういう意味じゃないかと思うですね。
 そこで御理解第三十七節を頂きますと、「生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞい。」と
 私共信心が教えの昔に返った。云うならば、白紙に返っての信心。私共が拝ませて頂く神様はどういう方かと云うと、
 御神訓一、
一、神は昼も夜も遠きも近きも問わざるものぞ。頼む心に隔てなく祈れ。  と
一、清きところも汚き所も隔てなく天地乃神は御守り在るぞ。吾が心に不浄を犯すな。
 と、云った様な事になって來る訳です。神様は昼も夜もなければ近くも遠きも無い。時間もなければ空間もない。しかも清いところも汚いところもない。隔てなく御守護下さってある。
 そういう働きをなさる神様だと言う訳である。その神様の御心を分かりたしと精進する。それを云うなら天地の法則とでも申しましょうか。本当なこと、いわゆる心理を追求しているとでも申しましょうか。そこからその法則に従ったり、人間の生活、まともな生活とは、そういう事だと思う。そういう生活が始まる。そこから尚且つ私共はおかげを頂き、願わなければおられない、すがらなければ居られないと云うことになって來る。そこんところが基本になる。だから私は人間らしい信心と云う訳なんです。人間がする信心だと、只ここのところを助けて貰いさえすれば良い。ここのところを聞いて貰いさえすれば良いと云う様な只考えでするという信心とは根本的なところから違う訳です。そこに奇跡が生まれると言ったような事が無いことはない。吾が心に神が御座るから、一心を立てるから、自分の心に神が御座るからおかげになるのである。
 だからそれは、お地蔵さんでもよけりゃ、柱一本を拝んでも良い訳である。
 自分の心の依り所をそこに持って行くとおかげはその柱が下さるのでもなければ、お地蔵さんが下さるのでもない。自分の心から生み出すものなんです。そういう一つの方法が千羽鶴を沢山作る。どうぞ試験が合格するように、合格する様にと思うて作る。
 そういう風に心を一心と打向けるところに我が心に神様が御座るからおかげになる働きと云うものが、不思議な働きが生まれて來るのである。おかげさえ頂ければ何処でも良かと云うならそれでも良い。
 それでは人間万物の霊長と云われる人間の常識で考えてもおかしいと云うことになる。
 そこで私共は本当の事を分からせて貰い、本当の事を行じさせて貰い、しかも尚私共は叩かれれば痛い、痒ければ痒いをそこに訴えて神様のおすがりすると云うことになります。それもそこんところの基本と云うものをわきまえて於いてのすがり。しかも天地の心を心として、天地の心が分かれば分かる程です、そこを教祖は親子の情を持てと書いてある。
 天地に対する私共は小天地である。天地の親神様であるところの、可愛い信者氏子である。そこで親子の情をもって私共が神様にすがる。それは乳飲み子が何も分からないままに親の膝に這上がって行く様なもの。それを親は跳ねのかしもしなければ飲ませんとも云わん。それこそ、抱き抱えてお乳を飲ませる様なものだと云う風に頂く訳なんです。いわばそこにすがると云うことは、もう子供が親にすがる、それと同じであって、これはもう当り前なのだと云うこと。どうぞ千羽鶴を折りますから下さいと云う訳でもない。
 どうぞ何千字書きますからと云うのじゃない。地駄ん駄踏んでどうぞと言うのじゃない。それは極自然に自然に乳飲み子が母親の膝を這上がって行く様な状態で私共がすがらせて頂くところからおかげが受けられると云うのが金光様の御信心。段々信心が分かって來る時にそういう意味の母性愛的おかげから云えば厳しい厳しい父親の愛情とでも申しましょうか。まだそれ位のこと分からんか、幾ら云うて聞かせても分からんと、お気付けと云った形で現れて來ることにもなると教祖は教えておられる。
 そこんところが金光様御信心の基本姿勢になるところなんです。こげなこと願うては済まんとか、願うてはなるまいなんと云うことはない。願わねば居られんのだ。そこで親である子であると名乗り上げたが最後、そこから親子の関係と云うものがいよいよ密なるものに成って來るのである。だから、そういう信心を聞かせて貰い、分からせて貰うてです、いいよその信心が育って行く、成就して行く。それが神様の願いが成就して行くとも、親の願いが成就して來るとも成って來るのです。  そこで、御理解第三十七節

「生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞい。」

 生きておる間修行ちゃ随分厳しい。ああ金光様の修行ちゃ死ぬまで修行せにゃならんと云う風な向きもある様だけれども、先の方分からせて貰うと丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞいと云うことになる。
 だから、そこまでが読まなければおられない。修行させて貰わなければおられない。そこまでが大事、その為にはやはり学者が限りなく勉強すると、もうこれだけ年を取ったから本を読まぬなんて事はない。もうそれこそ、眼鏡をかけて目が薄うなっても、眼鏡をかけてでも、新しい学問と云うか、研究すれば研究する程、読めば読む程、新しい知識が身に付いて來ることが、もう楽しゅうてたまらんと云うのが、学者が眼鏡をかけて本を読むのと同じだと云うことではないでしょうか。
 だから信心もそこが大事なのです。一生が修行じゃと云われると、ほう一生参らねばならんかとか、一生死ぬまで修行せんならぬじゃろうかとか云えば、大変厳しい、とても出来ないように思うのだけれど、先程申します様に乳飲み子が母親の膝に這上がって行く様に、極自然な姿で神様と私どもの関係がいよいよ深うなってくる。そこには私どもの心の成長と云うものがあって、それこそ心の蔭の様におかげがそれに伴うて來る。
 より大きくなったり、豊になったら勿論おかげが大きくなって行く。間違えば神様からお気付けを頂く。そこに父親の愛情を感ぜずに居られない。叩かれてもやはりすがって行かねば居られない。
 昨夜もやはり修行の事に付いて頂きました。
   「落ちぶれて、袖に涙のかかるとき
            人の心の奥ぞ知らるる。」
 これは修行の無い人の言葉でございましょう。ところが段々信心させて頂いて、神様の有難さが分かって來る。そしてそこに難儀に出会うと致しましょうか。時に私共の心の中に実感として感じさせて頂く事が、どういう事かと云うと、神様が私共にこういう事までして導いて下さる。神様がこの様にまでしておかげを下さろうとする働きがあると、云うことが分かって來る。
 袖に涙のかかる人の情の奥ぞ知らるると、袖に涙がかかる様な難儀を感ずるとき、いよいよ親神様の心の奥の奥が分かって来たと云うのである。楽しいです、難儀も又楽しいです。その難儀を通して分からせて頂くことが楽しい。
 成程、本を読む度に知識が身に付いて行くことが感ぜられる様に、新しい知識が学ばれることが楽しいのですから、学者は本を読むこと勉強をすることをそれこそ、修行とも思っていない。
 ここでは、修行という言葉を使うならばです、私共はそれを修行とも思わぬでも済む程しのおかげだからそういう様な神様の心が分かりたいと修行する。
 いろんな問題を通してこれで分かりましたと云う様なところが分かって來る時に、神様それを喜んで下さるからこそ、その喜びが又私共の喜びとなって返って來る。そこんところが段々分かって参りますと今度は自分が求めて修行させていただこうと云う様な心が起こって來る。
 修行させて頂くと頂く程、たとえて云うと、初めに人間らしい信心と申しましたね。それが只自分の願いを成就して貰うだけ、お水をかかった。断食をした、火の行、水の行をした。云うならば修験者的な修行とも申しましょうかね。そういうのはおかしい、人間らしくない。それは自分の願いが成就することの為に、これはまあ、そういう厳しい修行をさせて頂ながら願うと、その念力と云うものは非常に強いものになるのです。だからその念力そのものは、いけないのではないのですけど、根本が違うでしょうが。
 例えば、あれをどうでもこうでも祈り殺さんあらんと云う時には断食でもしてから祈る。そしたら本当に病気になったり死んだりする。恐ろしいことです。この立木を一週間の内に枯らして見せますと云った様な行者があるそうですね。
 山の中で立派な木があるでしょう、杉の木なら杉の木がそれを一週間で祈り枯らすと云う訳なんですね。木を枯らして仕舞う。それは杉の木にしがみ付いてから、どうぞ枯れます様にと云うて願う。そういう事。念力。念力を稽古する。念力を強くする為に、念力を強くすることは良い事だけれども、そういう修行することはおかしいこと。
 人間が万物の霊長と云われる程の人間がする生き方ではない事が分かる。私共段々信心させて頂いて、成程思うごと念力とは出来て來るものなのです。一心に願うと云うか、皆さんが願われるよりも私が願った方が少しは増しなおかげが頂かれるようなものなのです。
 念力の稽古。けれどもその念力と云うても、その根本が違う。
 修行させて頂くでもそれこそ、貴方の心がもっともっと分かりたいと云うて修行をする。断食もさせて頂いた。お水も朝晩頂いた。寒中水凝りを取ることは決して楽なことじゃないけれども、それは白真剣に金光様と唱えなければおられない。その白真剣に金光様と唱えられるそのことが有難かった。
 どうぞ水をかかりますから、こんなおかげを下さいと云うものじゃなかった。そういう中にね、神様の心の奥が深く分かっていく訳なのです。
 私は金光様の御心の奥が深く分かって行く訳なのです。
 私は神様の御心と云うものを本当に親子だなあ、親子の情をもって教えを説いて下さるが、親子の情をもって私共の上に現れて下さるなあと云うことを痛い程実感することなのですけど。
 昨日も、月次祭が済みましたらキミ子さんが御神酒頂きよったら今日は親先生こげなお知らせ頂きましたと云うて届けました。どげなことじゃったのと申しましたら、親先生が親奥様に綾部さんの断食修行が終った。すぐに一杯半の御飯を二杯になる様におじやにして作れと親奥様に言うておられるところを頂いた。命令しとられた。だから、綾部の小母ちゃま断食しとんなさるけん、まあ、成就した、叶えられた、引き留めて下さったと云う意味じゃろうかと云うてお届けするのです。私はそれを聞かせて頂いて本当に神様と云うものは有難いと思うんです。
 此処の方達は皆さん断食する時に、何日間と決めてする人もあるけれども、無期限に入って行く人があります。それがどうでしょう。それが神様に通じなかったらどうでしょう。知らんぷりしてござるなら、いつまでも、高橋さんの時もそうでしたよ。私がお知らせ頂いて、あの時は誰でしたかね、末永さんでしたね。ああそう、末永さんが頂いた。今日からお食事を許されるごとなった、許されるでなくて、今日から頂いてくれよと云うもの感ずるでしょうが。その位にそうしてどうぞ頂いてくれよと云った感じ。
 ですから、一ぺんにがばと食べてはいかんから、一杯半のご飯を二杯になる様におじや、柔らかにしてと云う訳なんです。だから、私早速家内にそう申しましたてね。恐らく家内が炊く準備をしておるでしょう。どうぞおかげを受けてくれよと言う親神様の思いがそういう中から感ぜられるでしょう。
 あれが修行しよると云うからどの位やれるか見ていておこう等と冷酷 なことはひとつもない。もう本当に神様もその氏子と一緒に断食してござると云った様な感じ。ですから、そういう情に溢れる様な中に信心が身に付いて行くと云うか、血肉になって行くと云うかその修行がこよなく有難いもの楽しいものになって來るからこそ、それが一生形が違いましても一生が修行じゃと云うことが、いや修行はさせて貰わなければおられないと云うことになる。学者が眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞいと云うことになる。
 神様が私共に修行させて下さる。氏子の苦しみは神の苦しみ。氏子の喜びは神の喜びと仰る。けれども、修行させて頂かねば分からない。修行させなければ分からないことがある。そこんところに金光様御信心の本当に一番尊いと云うか有難いと云うか、外の信心とは違おおがのと云うのがそこなんです。
 只自分の願いが叶えば、千羽鶴を折りさえすれば祈願が叶えると云うなら、或意味では気安い事かも知れんけど、人間が常識で考えてする信心ではない。だから、私共に云わせればそれは信心じゃないと云うことになるのです。いわゆる人間がさせて貰わなければおられない信心が金光様の御信心だと思う。
 その基本姿勢になるところは教えの昔に返らせて頂くと言うこと。一切今迄自分達が少し勉強したとか、知識を得たとか云った様なものは一ぺん白紙にして教えの昔に返らせていただけと仰る。そこんところを私共が基本としての信心である、又は修行である。
 その修行はもうこれだけで良いと云うことではない。一生が修行じゃと、それは信心のお徳と云うか神徳が身に付いて行くと云うこと。信心のこれは私共でも同じ事。まだどれだけ分からない世界が有るやら知れん。その世界に臨んで行こうとする姿勢。
 だから、一生懸命修行させて貰う。しかもほう、一生せにゃんならと怖気付くことではない。乳飲み子が母親の膝に這上がって行く様な極自然なそして成長して行く信心が一生修行と云うところまで高められて來る訳であります。
 私は今日に御神訓
 「今よりは何事にも方位を忌まず吾が教えの昔に返れ」と、どう説明して良いか分からない。だから、どう云う事であろうかと良く知らない。けれども、私は先に申しました様に吾が教えに昔に返れと云うところは私共のしかともない勉強と申しましょうか。身につけてきた考え常識的なものを一ペン白紙にして吾が教えの昔、だから百十年前の教祖様の教えに返れと云ってもよいでしょう。その教えのそのまま素直に頂いたと云うことになるのです。と、云う風にも頂けれるでしょう。
 だからそれが、お道の信心の基本になる。そこを聞いて頂けば成程人間がする信心だなと言うことが分かるでしょう。そこから始められる修行は限りが無い。それは一生である。
 役徳が身に付いて行くことを楽しみに眼鏡を書けても一心に本を読む学者の様に、私共がね、本当にお徳を受けて行って行くことが自分で感じられる。自分で感じられるそれが楽しいのである。おろそかに出来ない。成程一生が修行じゃと云うその御理解に結び付けてね、今日は御理解頂いたんです。
 もう一ぺん皆さんがね、私共が頂いてとる信心が如何に人間万物の霊長として、霊長と云われる程の人間がさせて頂かねばおられない信心、それが金光様の御信心だと分かって頂きたいです。
                      どうぞ。